本の感想「神の蝶、舞う果て」上橋菜穂子

本の感想「神の蝶、舞う果て」上橋菜穂子(講談社)2026_01

 新作だと思ったのだが、30年ぐらい前に連載していたものだという。書籍化はされていなかったのだが、この度、単行本として刊行された。本書で描かれる異世界ではラムラーという植物が重要な食料として利用されている。一年のうちに何度も結実するのだが、受粉は専ら「神の蝶」が行う。この蝶は大井戸という底なしの穴から時々姿を現すのだが、この蝶を捕食する「蝶の影」という蛾のような生き物がいてこちらも大井戸から出現する。「蝶の影」を駆除するための役割を担うのが「降魔士」といわれる若者たちで、厳しい選抜試験を通った者たちによって構成されている。駆除の仕事は男女のペアで行うことになっている。主人公は「降魔士」のジェードとルクランで物語の冒頭で大井戸に入っていったルクランが鬼火に遭遇してジェードに救出されるシーンから始まる。ルクランには自分で制御できない不思議な力があり、他の人には見えないものが見えることがある。他の人と違っていることによって、ルクランはある種の差別的な扱いを受けることもり、ジェードは相棒であるルクランを守る立場でもあった。「神の蝶」「蝶の影」は自然環境である。人が環境をどう利用するか、あるいは環境に負荷をかけたり破壊したりすることが物語のテーマになっている。ある時、均衡を保っていたように思われたラムラーの成育状況に変化があった。そしてそれらが生息する湖の水位が変化し、何か巨大なものが湖底から現れてくる。神官たちはこの異常事態に対処しよう試みる。そしてジェードはルクランの出生に関わる秘密がこの問題と何らかの関りがあるかもしれないと考えた。物語は終盤に向けて緊迫した展開へ突入していく。上橋作品の描く様々な異世界では何か特殊な能力を持った登場人物が作品の魅力になっていて、本作もその例外ではない。しかし本作はそれほど長い作品ではなく、物語の構成にはやや物足りなさも感じた。次の作品を期待して待ちたい。

 

本の感想「家に帰ったらクマがいた」米田一彦

本の感想「家に帰ったらクマがいた」米田一彦(PHP新書)2026_04

 著者は中国地方でツキノワグマの調査研究をしている。日本ツキノワグマ研究所所長でもある。フィールドワークで顕著な実績があり、これまでに3000回以上クマに遭遇して、9回襲われた経験がある。本書はその体験に基づくクマの生態をドキュメントとして記したもの。50年にもわたり最前線でクマと向き合ってきたが、それでもまだまだ分からないことが多いのだという。著者は昨今のクマ問題の対処法として駆除一択になってきていることに警鐘を鳴らしている。中国地方のツキノワグマの管理にあたった経験においては、安全な放獣を中心に取り組んでいた。そのやり方はクマの絶滅を防ぎ、適切な生息数を保ったことになり、本来の生態系を維持することで人間の命を守ることにもつながると説く。クマ問題についてはまだまだ知見の足りないところがある。個々のケースでは駆除か放獣か二者択一にならざるを得ないにしても、包括的な調査研究や対処方法の模索は速やかに、継続的に行う必要があると考えた。

 

本の感想「『お間違いありませんか』に間違いはありませんか」中川秀太

本の感想「『お間違いありませんか』に間違いはありませんか」中川秀太(東京書籍)2026_03

 言葉の表現で何か違和感があったりすることはあるものだが、本書はそういう例を解説するだけでなく、音便変化や発音、漢字の読み方などについても様々な事例を解説する。読み物としての面白さはあまりない。これまで全く気付かなかったことだったが、数の数え方について興味深いことが紹介されていた。1から10まで昇順で数を数える場合と、10から1へと降順で数える場合での違いがあるという。昇順は「イチ、ニ、サン、(ヨン)、ゴ、ロク、シチ(ナナ)、ハチ、(キュウ)、ジュウ」となるが、降順だと「ジュウ、キュウ(ク)、ハチ、ナナ、ロク、ゴ、ヨン、サン、ニ、イチ」となることが多い。昇順の「シチ、ハチ」でに降順の「ハチ、シチ」でも続くと音が似てしまうのだが、昇順の方はあまり抵抗感がないように思う。降順の「ジュウ、ク」と「ゴ、シ」はそれぞれ「ジュウ、キュウ」「ゴ、ヨン」の方がしっくりする感じになる。無意識に使い分けしていることに気付かされた。

 

本の感想「雨影の孤児たち(上・下)」ナオミ・イシグロ 川野康子訳

本の感想「雨影の孤児たち(上・下)」ナオミ・イシグロ 川野康子訳(早川書房)2026_05

  SFファンタジーというジャンルに入るのだろうと思う。図書館の新刊コーナーで見つけたもので、作者はカズオ・イシグロの娘さんということだ。どんな書き手なのか事前に何も知らなかった。著者は1992年生まれで大学では英文学を学び、書店員として働いく傍らでフォーク・ミュージシャンをしていたこともある。カズオ・イシグロも若いころに音楽をやっていたことがあったからその点ではこの親子は似ている。その後、別の大学(父親も同じ大学で学んでいる)でクリエイティブ・ライティングを専攻した。中学教員とフリーランスのクリエイティブ・ライティング講師の経験を持つ。本作はある異世界を描く。その世界ではコンピューターなどのデジタル技術やロボット・テクノロジーが発達しているが、海を渡る移動手段では帆船が使われていたり、戦闘においては弓矢や剣といった武器が使用される。現代と過去の文明が混じりあったような世界である。舞台となるのは一つの都市国家のような島で、独裁的な皇帝がいる。反皇帝の立場をとる犯罪組織と社会の底辺に位置づけられる下層階級もいる。また、この社会には魔法のような特殊能力を持つ人々や竜も存在している。この辺りはアーシュラ・K・ル・グィンの描くアースシーの世界観に似ている。主人公はカワカミきょうだいという3人で、血のつながりはないのだが、ある人物に引き取られて一緒に育てられた。姉のメイは21歳でコンピューターやその他の技術系な知識とスキルを持つ。兄のジュンは20歳で変装術の名人であり、裁縫、料理が巧みで医療の技術も持つ。妹のトシコは正義感が強く戦闘能力が高い。このファミリーは下層階級に属しており、上級市民とは様々な点での格差がある。レジスタンス活動を起こして独裁制の崩壊を目指している。物語の初めでトシコが宮廷に忍び込んで不思議な力を持つ真珠を奪った。この真珠を身に着けるとその人が持っている能力を拡大できる作用がある。皇帝勢力はこの真珠の奪還を企図する。さらに犯罪組織もこの真珠を利用しようとする。大局的には「皇帝」「カワカミファミリーとレジスタンス集団」「犯罪組織」の3者が絡み合う抗争が展開していく。物語のベースになっているのは昨今の「分断社会」なのだろう。貧富の差が拡大し、移民問題なども顕在化する一方だ。作者がそのような社会問題を意識していることは確かだと思われる。ちょっとあれこれ詰め込み過ぎたような印象もなくはないが、物語自体は魅力的である。3部作として完成される予定だというので続きも読んでみるつもりだ。

本の感想「人に言えない秘密があります」高橋源一郎

本の感想「人に言えない秘密があります」高橋源一郎(毎日新聞出版)2026_03

  毎日新聞の人生相談のコラムには数名の回答者がいてそのうちの一人が高橋氏だ。読むのは高橋氏の回答のみにしている。本になったのはこれが3冊目となる。人生相談というのは正しい回答というのはないものだし、第三者として読んで面白いかどうかはかなり個人差があるものだ。だから本書を読んでも「なるほど」と思うものと同じくらいそうは思わないものもある。中には「これはひどい」のもあるし、「全く意見が合わない」ものさえある。読み物としては全部が面白いほうがいいけれども、人生相談だからそうはいかない。

本の感想「沖晴くんの涙を殺して」額賀澪

本の感想「沖晴くんの涙を殺して」額賀澪(双葉社)2020_09

 この作者の本を読むようになったのは割と最近のことなのだが、実に色々なテーマを取り扱っているのに驚かされる。よほどネタの引き出しの多い作家なのだろう。本作はある不思議な力を持った高校生と余命1年半のがん患者で元音楽教員との交流を描く。主人公の高校生志津川沖晴は東北の津波で家族を失った。縁あって瀬戸内らしいある町で一人暮らしをすることになる。その町に、もう一人の主人公である踊場京香が戻ってきた。東京で音楽教員をしていたのだが癌のステージIVの診断を受けて退職し故郷に戻ったのだった。すでに両親を亡くしていて彼女の祖母と暮らすことになる。祖母はカフェを営業している。沖晴と京香の出会いは偶然で、京香が引っ越してきた当日に防波堤にいる沖晴と出会った。彼に不思議な力が備わったのは津波に襲われた時に死神と出会ってある取引をしたことによってだった。彼は「喜び」の外の感情が失われていた。物語は沖晴が「喜び」以外の感情をひとつずつ取り戻していく様子を描く。感情を一つ取り戻すたびに、彼に備わっていた不思議な力が一つずつ失われる。京子は出身高校の合唱部の活動の手伝いをするのだが、沖晴も合唱部に所属している。二人は互いにそれぞれの事情を知るようになり、関りを深めていく。物語は生と死と真正面から向き合う二人を深堀していくので重厚感がある。ファンタジックな要素もあるのでリアリティを阻害する面もあるものの、物語の運び具合には欠かせない要素だと思える。読み応えのある作品だった。