本の感想「ゴリラ裁判の日」須藤古都離

本の感想「ゴリラ裁判の日」須藤古都離(講談社

 カメルーンでゴリラ研究をしていたアメリカ人がゴリラに手話を教えることに成功した。ヒトとの意思疎通が可能になったゴリラは生まれ育った森を離れてアメリカに行くことに興味を抱く。研究者や他の様々な立場の人がそれぞれの思惑の元に協力してゴリラはついにアメリカに入国する。これはジャンルに分ければ「異文化コミュニケーション」の話と言うことができる。例えば、ジョン万次郎とか大黒屋光太夫のようにアクシデントで異国に辿り着いたのではなく、自分の意思で異国へ渡った。しかもあらかじめ言葉ができたから万次郎や光太夫とは事情が異なる。より似たような例を探すとすれば、大戦中にアメリカで収容所に隔離された日系米人が近似するのではないだろうか。隔離は日系米人の意思にはよらないが、アメリカ人からは非アメリカ人と言われ、日本人からは非日本人と言われた状況は、このゴリラのケースと重なるところある。すなわち、ゴリラの社会においては非ゴリラの自認があり、ヒトの社会では非ヒトの自認があるのだ。このゴリラにとってはその状況が異文化の壁になっている。

 野生のゴリラは群れを作って生活していてその中での意思疎通は非言語的方法で行われている。ヒトとの意思疎通もヒトがゴリラに仲間だと認められれば一定程度は可能である。作品中のゴリラの言語能力は荒唐無稽の域であるが、異文化コミュニケーションのストーリーを作るためにそういう設定にしてある。ゴリラはある悲劇的な出来事についての裁判を起こすことになる。人間社会が作り上げてきた法理とは「人間の、人間による、人間のための法理」である。絶対的な公正を実現するためのものではない。このことをもう少し深めてみると、現実に運用されている法理とは「ある特定の人間の、ある特定の人間による、ある特定の人間のための法理」だと気付かされる。

 話せるゴリラという設定はちょっとやり過ぎかなという印象をもっていたが、読み物として楽しめるのは作者の優れた力量だろう。