本の感想「日本宗教のクセ」内田樹、釈徹宗

本の感想「日本宗教のクセ」内田樹釈徹宗 (ミシマ社)

 内田氏と釈氏の自由闊達な対話を収めている。日本宗教のクセはひとつには「習合」的であることだの見解を述べている。そのことはさておいて、二人の博覧強記ぶりとあちこち思いがけない飛躍をする意外性と、様々な事柄についての見解の披歴など、楽しめる1冊である。いくつか例をあげると…

*「自由」と「平等」という言葉は、アメリカ独立宣言の中にも出てきます。「自由」の達成が新しい国家の目標であることはよく分かります。でも、「平等」が達成されるということについてのイメージは独立宣言を読んでもぜんぜん湧いてこないと思うんです。市民たちに「自由」を保証することは政府の責務です。でも、市民たちに「平等」を保証するのは政府の仕事ではない。(中略)平等を構想し、実現し、保証しているのは創造主であって、人間じゃないんです。

 以上は内田氏の見解であるが、なかなかこういう突き詰めたところまでは普段考えることはないものだ。自由・平等・博愛と並べて言うことがよくあるものの、それぞれにステージが違うということがよく分かった。

 

*とりあえず資本主義は人口が右肩上がりに増加し続け、収奪すべき資源は無限にあるという「あり得ないこと」を前提に制度設計されていますから、どこかで限界に達します。そのときに、今の経済システムは大きな修正を余儀なくされる。でも、前代未聞の経験ですから、そういうときにどうしたらいいか誰も知らない。そういう場合は、皮膚感覚とか、直感とか、原始的なセンサーに頼るものがない。(中略)もう「正否・真偽」というデジタルな区切りではなく、もっと大雑把な「この辺」とか、「だいたいあっちのほう」というようなアナログな方向づけしか人間にはできないんじゃないかと思うんです。

 これも内田氏の見解だが、コロナ対応という難事もこれと同じようなことだったような気がする。

 

*アスリートというのは今でも「異能の人」なわけですよね。(中略)「ホーム」もあるけれど、「アウェイ」でも試合をしなければならない。それは彼らが遊行の民であって、ある種の宗教的機能を担っているからだと思うんです。その機能がアスリートに固有のステータスを与えている。アスリートはインサイダーじゃないんです。オリンピックを観ていて、これは違うんじゃないかと思うのは、この異能の人たち、本来なら「ノマド」であるはずの人たちを、インサイドに引きずり込んで、ビジネスとか経済合理性とか国威発揚とかいう世俗的な目的のために利用していることなんです。

 これも内田氏の見解。コロナ禍での東京オリンピック開催があったが、そのおかげでIOCは悪辣な興業屋だと化けの皮がはがされた。オリンピックが清廉な祭典だった時代は終わっていて、すでに役割を終えたと認識するべきだろう。各競技団体の世界大会があればいいわけだし、様々な競技を1か所に集めて3蜜を作るべきでもない。

ツイッターで読んだんですけれども、あるお母さんが、小さなお子さんに「今日はお墓参りよ」って言ったら、「毎日お仏壇にお参りしているのに、どうしてお墓にもいかなきゃいけないの」と訊いたんですって。「いったい死んだおじいちゃんはどこにいるの?」って。そしたらお母さんが「死んだおじいちゃんはクラウドに保存されていて、お墓がデスクトップで、仏壇がモバイルなんや」と説明したそうです。だからときどき訪れてアップデートしないといけないんだ、って。

 これは釈氏の経験談。随分と上手なたとえ話を作るお母さんがいるものだと感心した。