本の感想「デジタル社会の罠」西垣通

本の感想「デジタル社会の罠」西垣通毎日新聞出版

 毎日新聞に連載した記事と書評などをまとめてある。著者は長年コンピューター研究と開発の最前線で活躍してきた。その後、いくつかの大学で情報学の研究と教育に携わっている。速すぎるAI技術の進歩に人はその対応に追いついていけない。その現状にどういう示唆があるなのかを専門家の知見を元に解説している。

 「機械翻訳と外国語学習」についてはこう述べる。「一般論としては、コンピューターはそもそも語句の意味を理解できないし文脈も捉えられないのだから、難解な長文の機械翻訳は困難だ、ということになる」とする。昨今はスマートフォンの機能でも機械翻訳を利用できるが、精度の面では必ずしも十分ではない。とは言え、状況設定がはっきりしてさえいれば、なまじいくらか英語には自信があるようなレベルの人でも機械翻訳にかなわないこともあるだろう。機械は一旦インプットした語彙や文法を忘れてしまうことはないのだから。日本の英語教育ではそれが始まった頃から「教養か、実用か」の論議が繰り返されてきている。今のレベルの機械翻訳があればもはや大概の高校生、大学生らの「実用力」はカバーできているだろう。だから、学校で教えるのは機械翻訳の上手な使い方と、いわゆる「教養」の方と言うことになる。外国語の学習というのは知的なエクササイズとしても有効なので、学校教育から外国語学習を外すというのは論外である。

 「日本のデジタル敗戦を考える」ではこう述べる。「日本のデジタル技術は昔から低水準だったのだろうか?そこには技術だけでなく、文化や社会に関わるもっと大きな亀裂が潜んでいるように思われる。(中略)1970~1980年代まで、デジタル技術の中核を担っていたのは、メインフレームと呼ばれる汎用大型計算機である。(中略)ユーザーは少数のプロに限られていた。(中略)プロでない一般人がパソコンや携帯電話でデジタル技術を駆使し始めたのは1990年代半ば以降である。(中略)日本のデジタル産業はこの変革の波に乗れなかったのだ。(中略)理由は、日本文化が昔から「素人がつくるアマチュア技術」とは異質だったためである。(中略)完全性を求める潔癖性は日本人の美学であり文化なのだ。(中略)「日本のデジタル技術は遅れている、一刻も早く米国に追いつけ」と騒いでいる人たちは、はたしてこの文化的差異を見抜いているのだろうか」と解説している。このぐらい深い洞察がなければデジタル社会を論ずることはできないと思わされる。

 第3部の「生成AIは汎用知になるか」においては、チャットGPTなどに触れながら、歴史、宗教、文学、哲学への広く深い言及を展開しつつ論をまとめてある。簡単に読みこなせない部分だが繰り返して精読したい内容である。次の提言は警鐘として受け止めるべきだ。「21世紀に入って、人々が緩やかにつながっていた地域、企業、家族などの共同体は残酷なまでに分断されつつある。新自由主義経済のもとで独立した個人の利潤追求だけが奨励され、ごく少数の勝ち組エリートをのぞけば、圧倒的多数の負け組がうろつく荒野が広がろうとしているのだ。DXは何をめざしているのか。効率化とはいったい誰のためなのか……。この国の産官学エリートは、なぜ、欧米由来の科学技術を絶対的に崇拝しひたすら追従するだけなのか、と首をかしげたくなる。それが豊かな物質文明をうんだことは確かだが、核兵器や地球環境破壊といった致命的災厄をももたらした。「人間のために自然を支配し服従させる」という当初からの意図が、ひるがえって人間自体をモノ化し、生命活動を決定的に脅かしている。そういう冷厳な事実をもっと直視すべきなのである。」