本の感想「文学キョーダイ!!」奈倉有里・逢坂冬馬

本の感想「文学キョーダイ!!」奈倉有里・逢坂冬馬(文藝春秋

 姉弟の対談。奈倉氏はロシア文学研修者・翻訳家で、逢坂氏は小説家。二人とも文学の専門家ということになる。対談後に、こんなにじっくりと二人で話をしたことはなかったと述べているが、3パート構成の本書は読みごたえがあった。パート1は家族や生い立ちについて、2は文学について、3は世界について語り合っている。

 パート1から。

姉:やっぱり本があればあんまり孤独じゃないよね。

弟:(中略)「友達がいない」で悩んでいる若者がすごく多いというふうに聞いた時に、「そこ、そんなに悩まなくていいんだけど、大変だな」って思うようになりました。というのは、別に友だちがいないというのはぜんぜん悪いことじゃないし、孤立することだって悪いことじゃないわけです。(中略)そういうことで悩まなきゃいけない人って、友達がいなくてなにか具体的なことに困っているというよりも、友達がいないとみなされることがとんでもなく苦痛であるように見える。でも、なにかに打ち込めることがあったりとか、自分が心地いいという感覚があれば、実は別に友達って必要ないんです。

姉:(中略)好きなことをやっていてよかったなというか、本当にそれをずっとやっていると、そのうち自分みたいな人に出合える。(中略)というふうに子供たちに言いたい。

 逢坂氏の発言で「友達がいないとみなされることがとんでもなく苦痛」ということは的確な指摘だと思う。とりわけSNSとかスマートフォンの通信機能の発達がこのことに拍車をかけた。いってみれば過剰な利便性がもたらす災厄といってもよいだろう。少なくとも本が好きという人は本を友達にすればいいのだし、読書体験を維持していくことでいつか誰か出会うべき人に出合うと思えることはとても大切なことだろう。

こちらはパート2

弟:いま国が理工系の学生を増やそうとしているのは、実学志向と、それ以上に危険な思想を感じる。

姉:もうちょっと言えば、人文系をつぶそうとしているという。

弟:高等教育のありかたって、言ってみれば国家から独立した人間を育てる家庭でもあるわけですよね。一元的な教育から離れて、知的に独立した人間を作るという。でも、知的に独立した人間を作るという発想そのものを憎悪している節が、現在の日本には見られるように思います。単なる利潤の追求や実学志向とも違う、知性の独立を恐れるという。もっと社会に従順で、経済を発展させる方向にだけ行きなさいと。

 この辺はぜひとも文科省が頭を冷やして精読するべきところ。後になってから「あのやり方は失敗だった」と気づいても遅い。

もうひとつパート2から

弟:(高校生からの質問を受けて)「たくさん小説を読んでるんですけど、そんなに読んでなんになるの?といろんな人に聞かれるんです」と言っていて。それは親とか先生とか周りの子たちが言うらしい。「先生は小説とか本を読むのはなんのためって聞かれたら、どういうふうに答えますか?」と恐る恐る僕に聞いてきた。僕は「二つある」と答えたんです。一つは、必ず世界が拡張するから、そのために読んでいる。小説であれノンフィクションであれ、知る前の自分と読んだ後の自分というのは、確実にちょっとだけでも変わっている。(中略)で、もう一つあるんだけど、そもそもなんで何かのためじゃなきゃいけないの?と僕は言いたい。世の中のいろんな文化(中略)それが常になにかに還元されて自分を豊かにしてくれるんだという結論に持っていかなきゃいけないという考えかたが幅を利かせると、確実に世の中って殺伐としたものになっちゃう。だって「好きなことを楽しむ」ってことに存在意義を認めないんだから。(中略)

姉:いい答えですね。自分はこれを好きでいてもいいんだって思えるのはすごく大事。

 あまりにも当たり前のことを素直にそう思えないような空気のようなものはあらずもがなだということ。「~のためになる」という利益誘導の呪縛からは解放されるのがいい。好きなことをやるというのはとてもシンプルなことであり説明は要らない。この対話の息の合い具合は心地よい。