本の感想「老いの歩み」黒井千次(河出書房新社)2015_06
1980年代半ばから2015年までに書かれたエッセイをまとめたもの。著者の年齢では五十代から八十代までである。
「苦しみの消滅」は「新潮」1992年3月号に掲載された。引用は次の通り。「子供の読む童話や民話の本から、残酷な光景や死に関る部分が取り除かれたり、隠されたりするのだとしたら、これは幼い心から予め苦しみを遠ざけることによって、苦しみとつき合う機会を奪う結果となるだろう。小・中学校の国語の教科書編纂に際し、動物の死を含むような暗い内容の文章を採用しにくいため、教材の選択に苦労する、との話も聞く。(中略)苦しみを教える苦しみからの逃避の姿勢がそこに見られる」最近、新美南吉の作品が文庫で発売になった。小学生の教科書にあった「ごんぎつね」を再読した。動物の死で終わるこの物語は今はこの作品は教科書には載っていないのだろう。この作品を教科書から排除する理由には野暮ったさがあるのではないかと思う。
「指先の荒廃」は「潮」の1992年8月号に掲載された。家電などの生活機器が便利になってボタン操作で作動させることができるようになったことを指摘している。「その結果、指先の器用さが失われ、手の動きが退化する心配もあろうけれど、より恐ろしいのは、更に背後に広がる精神の在りようではないだろうか。人間が機械に使われる、とはよく聞く言葉だが、今や人間の眼に機会が見えなくなりつつある。ただ、ボタンとスイッチだけが存在する。そういった環境の中で育ってきた若い世代に、機械への軽視、無視の傾向が著しいのは当然でもあろうか。」この指摘は興味深い。機械の操作が以前よりも簡易になったからそれは指先の不器用に繋がるかもしれない。今はスマートフォンのスクリーンを的確に操作するためにはかなりの熟達したスキルが要るから不器用化事情は異なってくる。しかしながら著者の指摘の本質は「更に背後に広がる精神の在りよう」の方にある。スマートフォンの操作によって得られる利得とその利用によって喪失しているかもしれない何かとをきちんと秤にかけて評価しないと、ユーザーはただスマートフォンの下位に置かれてしまっていることになりはすまいか?