本の感想「生死の覚悟」高村薫・南直哉

本の感想「生死の覚悟」高村薫・南直哉(新潮新書

 2階の対談を収める。1回目は2011年1月25日、2回目は2018年9月13日に行われた。仏教についての対談だが余談も含まれている。最初に驚かされたのは、高村氏が小説を書く時に現実の人物には一切取材をしないとのこと。「ほとんど同時代のことを書いてきましたので、現実の企業社会や組織を描くことも多くありました。本当に自分の書きたいことを書くためには、相手にご迷惑をお掛けしないように、直接の取材は絶対にしないということを範として今までやってきました」。高村作品を読んで感じるのは圧倒的なリアリティである。小説の中のその場面に放り込まれたような感覚になることがよくある。その場の空気感、人の気配など何から何まで言葉で表現されていないことを直接に体感するたびに、この作家の卓越した表現力の秘密は何なのだろうと思った。人への取材なしで書いているとは夢にも思わなかった。秘密は一層深い謎になった。

 南氏が語る生と死の構造は次の言葉で説かれている。「一般的に、生の時間が途切れて死が訪れると思われがちですが、私の実感としては、生と死の時間は平行に流れている。むしろ死の重力がかからない生というのは、生ではないと思う。その死の重力が圧倒的に強い。生きていることは、死の上澄みでしかないとさえ感じることもあります。」

 「信心というハードル」についての高村氏の見解は次のように記してある。「私のように少し物を考える人間は、前提に信心や帰依がなければいけないとなった瞬間に、もうダメです。そこで仏教への入り口がもう閉ざされてしまう。こちらが閉ざしてしまうのですが。入り口が信心や帰依だとしたら、最初から手が届きません。そうではなく、信心や帰依する対象が何なのか、それが知りたいのです。」一般の人たちが信心することなく帰依することなく何となく宗教的な行為を行っているという現状があるが、それは一体どういうことなのだろうという疑問も立ち上がってくる。わが身を振り返ってみれば分からないことをついつい先送りしてしまうことを繰り返しながら馬齢を重ねてきたと言えるのだろう。この先に信心にも帰依にも至ることはなさそうであるが、この対談は大いに読む価値があった。