本の感想「夜明けを待つ」佐々涼子

本の感想「夜明けを待つ」佐々涼子集英社インターナショナル

 佐々さんの本は昨年まとめて何冊か読んだがいずれもすぐれたノンフィクションで感銘を受けた。死をとりあつかった作品も多く、ターミナルケアについては「エンド・オブ・ライフ」がある。著者は現在入院中であるが、悪性脳腫瘍で「神経膠腫(別名グリオーマ)」という難病である。平均余命は14カ月で、この本のあとがきが記されたのは昨年の9月だが、発病は22年の11月である。発刊が23年11月だが知らずにいた。先週、HNK R1の「NHKジャーナル」でこの本が紹介されたので早速読んだ。これまで書き溜めた合ったエッセイとルポルタージュを収めている。

 「この世に生きている人はみな同じく、死についての未経験者だ。ほかの人の死を見て、私たちはあれやこれや想像している。でも、どれほどの賢者であろうと、やはり生きている限り死などわからないのだ。そう思ったら生きるのが楽になった。いくら自分の外側を探しても答えは見つからない。自分の内側に戻って自分なりの生き方を見つけよう。そう思えた時、世界を旅して、僧侶たちに言われた言葉の意味がようやく腑に落ちた。『今を生きなさい。自分の内側に戻りなさい。』」

 作者は仏教について様々なリサーチや体験をした。熱心な信者になったわけではないが、仏教的な思想については親和的な立ち位置にいた。そういうバックグラウンドがあるからであろうが、「あとがき」の一節は強く心に迫った。

 「あと数が月で認知機能などがおとろえ、意識が喪失し、あの世へ行くらしいのだ。だが、ちょっと考えてほしい。それは誰もがいずれ通る道だ。老いも若きも、寿命の長い短い、そこに至る病気も様々だが、これは皆がいずれ向き合わなければならない。「人生の宿題」なのだ。(中略)グリオーマは、その数の少なさから「希少がん」と、呼ばれている。希ながんだから希少がんだ。「希少がん」。いい響きではないか。私は、その名前をとても気に入っている。入院中、病室を車いすで出ると、近くに、白い扉にガラス張りの一角があり、「希少がんセンター」と書かれていた。その名前に刻まれた「希少」は、私には「希望」に見えてくる。実際は希望なのか絶望なのか、私にはよくわからない。だが、いいではないか。私にとってそれは、めったに見ることのない「希望のがん」だ。では、希望とはなんだろう。その希望は、いったいどこにあるのだろう。いつか私にも、希望の本当の意味がわかる日が来るだろうか。誰かが私を導き、夜明けを照らしてくれるだろうか。もし、それがあるとするなら、「長生きして幸せ」、「短いから不幸せ」、と言った安易な考え方をやめて、寿命の長短を越えた「何か」であってほしい。そう願っている。そして遺された人たちには、その限りある幸せを思う存分、かみしめたほしいのだ」と。自らの死を見つめる著者の冷静さと穏やかさ、澄み切ったユーモアのセンスさえ感じる言い回しには驚くしかない。このような心性を持てる人がいるということは覚えておきたい。自分もあと何十年先まで生きることはないのだ。

 横浜にあるこどもホスピスを取材したときのことが最後に記してある。「代表理事の田川尚登さんがこんなことを語ってくれた。『寿命の短いこどもは、大人よりもはるかに、何が起きているか、ものごとがわかっています。だから『もっとやりたい』とか、『つぎはいつ遊ぶ』と、わがままを言ったりしないんです。ただ、その日、その瞬間のことを『ああ楽しかった』とだけ言って別れるのです』ああ、『楽しかった』と……。

取材をしていた時には、まだピンとこなかった。だが、その時わからなかったことも、今ならわかる。私たちは、その瞬間を生き、輝き、全力で愉しむのだ。そして満足をして帰っていく。なんと素敵な生き方だろう。私もこうだったらいい。だから、今日は私も次の約束をせず、こう言って別れることにしよう。『ああ、楽しかった』と。」