本の感想「日本語が消滅する」山口仲美

本の感想「日本語が消滅する」山口仲美(幻冬舎新書

 本のカバーに「水村美苗さん、推薦!」とある。水村氏は2008年に「日本語が滅びるとき」(筑摩書房)を出しているが、この分野の書作では稀代の名著である。水村氏は1998年にフランスで開かれたシンポジウムで小説家として何か話をしないかという誘いを受けた。快諾して、せっかくフランスに招かれたのだからフランス語で話そうと決めた。講演の冒頭はこのように始まる。「私は勇気ある女ではありません。でも一生に一度だけ勇気を出そうと決意しました。それで、こうして、フランス語でーー私の原始的なフランス語で、みなさんにお話をすることにしました」と。そしてこの講演の締めくくりは次の通り。「だって、想像してみてください。これから百年先、二百年先、三百年先、もっとも教養のある人たちだけでなく、もっとも明晰な頭脳をもった人たち、もっとも深い精神をもった人たち、もっとも繊細な心をもった人たちが、英語でしか表現しなくなったときのことを。ほかの全ての言葉がすべて堕落した言葉ーー知性を欠いた愚かな言葉になったしまったときのことを。想像してみてください。一つの「ロゴス=言葉=論理」が暴政をふるう世界を。なんとまがまがしい世界か。そしてなんという悲しい世界か。そのような世界を生きるのは、強いられた非対称性を生きるよりも、無限に悲しいものです。小説家がやや誇大妄想狂な人たちだというのは、みなさんもご存じだろうと思います。恥ずかしながら、私も例外ではないようです。ですから、私のような者も、かくも孤立した言葉で書きながらも、「人類」を救うためーー悲しい運命から「人類」を救うために日々奮闘しているなどと思っているのです」

 山口氏の本は水村氏の公演内容を豊富な事例と丁寧な解説によって裏付けしている。2020年から小学3年からの英語教育が始まったことについては、「自国語を十分にマスターしないうちに、英語教育を始めることは将来的にその国固有の言語の衰退を招く」と警鐘を鳴らす。第一言語(日本語)と英語のバイリンガルを目指していても英語のみを話すモノリンガルになっていくと指摘する。これは低年齢からの外国語教育導入が成功した場合のことなので私はさほどの危機感をもっていない。小学校からの英語教育は早晩失敗すると思うからだ。従来、中学校からスタートしていたものを数年前倒ししたところでバイリンガルを養成できるはずはない。文科省の意図としては高校卒業時に英語検定の準2級程度を達成させたいというのだが、所詮このレベルでは実用には程遠い。古くから英語教育論争というのがあり、「実用か教養か」で論が分れるのだが、準2級程度では実用でもなければ教養でもない極初歩の段階に過ぎない。問題は、小学校からの英語教育が無駄になるだけならまだよいのだが、日本語の教育が疎かになってしまうおそれである。小学校のカリキュラムが英語導入で過密化しすぎるのではないか。だとすればやらない方がいい。

 同化政策については日本ではアイヌ語を例に挙げている。アイヌの宇梶静江さんの言を紹介していて、「旧土人保護法が制定され、「保護」の名のもとにアイヌから財産はほとんど没収され、アイヌ語を使ってはいけない、(中略)とアイヌの生活習慣、文化はすべて奪われていきます」とある。世界史を振り返れば植民地では支配する側と支配される側とで同様の構図があった。言語的には支配される側の言語を無力化すること、少なくとも支配者語の方が被支配者語よりも優位であるように方向づけた。そうでないと支配構造が破綻してしまうからだ。場合によっては疑似バイリンガルのような状況もできた。これをセミリンガルと言うが、支配者側の言語と被支配者側の言語と両方を使えるようになるものの、どちらの言語も高度なレベルにはならないという悲惨な状況である。日本でも下手をすると(小学校からの英語教育が成功すると)こういうことになる可能性がある。もう少し深堀りすると、小渕内閣が指摘諮問機関「『21世紀日本の構想』懇談会」を設けて、2000年1月に「英語の第二公用語化」という案を示した。英語早期教育というのもこの辺りが発端になっているのだろう。著者の解説で「要は、日本語の他に、国際社会で後れをとらないために日常的に英語も使おう、という意味です。(中略)日本人は、日本語と英語のバイリンガルになることを目指そうという政策の提案です」これはあまりにも非現実的提案であり、本当に実現すれば確かに意味のあることかもしれないが、政治家の妄想というか、日本人の英語コンプレックスをうまく利用したあざとい票集め手法でしかない。よくヨーロッパの人たちはバイリンガルどころかマルチリンガルが少なくないと言われるものの、本当のバイリンガル(大学レベルの高等教育がどちらの言語でも可能)は少数であり、通例は第1言語が優位であることがほとんどだという。しかも欧州では互いに言語間距離が比較的近いから多言語習得はし易いが、日本語のように孤立した言語で多言語との距離が遠い場合にはバイリンガルに到達するのは困難を極める。自身の例で恐縮だが、50年以上英語の勉強をしているもののバイリンガルレベル達成には程遠く、英語力は大したモノにはなっていない。もし小学校からやっていたとしても大差なかったのは確かだろう。

 山口氏は最後に提言している。「日本語を母語として大切にしなかった報いは、自分の拠って立つアイデンティティを失うという形で、遠からぬ時期にやってきます。いな、刻々と日本人全体に、音もなく近づいてきています。その音なき近づきに早く気づいて、きちんと決意をしておかなければなりません。(中略)そのうえで、世界共通語を効率的に学んでいこう、と。」

 ジョン・グーレ作の詩

  死にゆく言葉はそっと崩れ落ちる 

  あの村でもこの村でも 

  静かに倒れていくーー叫ぶこともなく

  泣きわめくこともない

  さらりと、ふいにいなくなる

  鋭い目を持たなければ

  その静かな破滅に気づかない

  そしてつつましく、決意に満ちた心がなければ

  それを止めることはできない